面倒なことすべて投げ出して


「自分の後を付いてくる可愛い弟…か。」
 ふっと息を吐くゴドーを不思議に思い響也は小首を傾げる。
「自尊心の高いコネコちゃんは、色々複雑だったんだろうぜ。なんたって、自分の後を追ってくるのは、天才と呼ばれる血縁者だ。自尊心が高い分、それまでの経歴がある以上、実際の価値なんかよりも遥かに重圧を感じたはず。」

 指は外されない。それどころか、身体を離そうとした響也を引き留めるかのように、ぐっと拳を握る。
 
「…形振り構ってはいられないほどに恐怖の対象だった。」
「僕が、兄貴を追い詰めた。そう言いたいのかい?」
「いいや、追い詰めたのは奴自身だ。他の誰でもねぇ。」


「コネコちゃんを越えなければと、自分の周囲に高い高い壁を造り、自分で造ったくせに乗り越えられないと足掻く。
 そうして、その中にいると自分以外のものは全く見えなくなって、何で自分が壁をつくったのか忘れ、生まれた時から其処に居るような気になって、大切なものですら見失った。」

 自嘲の思いは、ゴドーの口端を歪ませた。

「そう、俺と一緒さ。
 珈琲は飲み干してみないと底に何があるかわからないなんざ吹いてはいたが、自分で入れた珈琲カップの底にあるものを知らないはずがない。」
 
 自業自得。ゴドーは小さく呟き、響也の髪から指を外す。解けてしまった糸は肩から流れるように胸元へ落ちていた。乱れた髪を、ゴドーに凝視されているのだと思うと、奇妙な気恥ずかしさが響也の胸に浮かんだ。
 成り行きでしてしまった情事に似た、不意打ちの感覚にそれは近い。
そんな事を意識してしまうと、気恥ずかしさが、響也の中でどんどん膨らんでしまい、出てきた言葉もふてくされた荒い言葉遣いになる。
「何するんだよ、こんなみっともない格好じゃ出られないじゃないか。」
「みっともない…か。こりゃいいな。」
 元には戻らない髪を未練たっぷりに指で弄る響也の姿に、ゴドーはくくと笑った。
「笑うなよ! これじゃあ、アンタの病室で何かしたみたいだろ!」
 口に出して、慌てて其処を抑えたけれども遅かった。あらぬ事を考えていたせいで、この男の前でとんでもない事を嘴ってしまった事に気付いても、慌てて取り繕う以外に対処出来ない。
 ゴドーの目は変わらず見えはしないが、きっと(目が点)の状態に違いない。
「な、何かってのは、その、只の例えで…僕はっ!?」
 挙動不審気味に、大袈裟に手を振って否定の意を表現していた響也の腰を、ゴドーは力任せに引き寄せる。ベッドに腰掛けているゴドーの胸元にダイブして、響也は息を飲んだ。
 くつくつと低い笑い声が耳元で響いていた。肩を抱き込むように腕が回されているのだと気付いたが、上手く身体が抜け出せない。
「ナカナカ良い発想だ、コネコちゃん。」
「からかわないでくれと言ってるだろ、こんなの…。」
「もう、終わったんだろ? コネコちゃん。」
 ふいに笑い声が止むと、ゴドーは響也の背中を軽く叩きながらそう告げた。
「ならもう解放してやる事だ。肉親だなんだと、義務感をもつ事はねぇ。辛い思いをするなら、こんなところに来る必要はない。」
「でも、僕は…。」
「いいから聞け。
 あの気位の高いコネコちゃんも解放してやるんだ。弟やまるほどうの影と立ち向かう必要もなければ、争う事もいらないと気付くのは、難しいかもしれんがな。」
「けど…」
 身体を起こそうと足掻く響也を押さえ込んだままでいれば、抗議の声は声高になっていく。苦笑しつつ、肩にまわした腕を緩めてやれば、視界ギリギリのところまで身体を起こすものの、両手をベッドについたまま俯いている。ギュッとシーツを握りしめたのが見えたと同時に声がした。

「此処に来ないと、アンタに逢えなくなる…だろ。」
 そう呟いて、小さく息を吐いた。
「アンタが此処にいてくれると思うから、兄貴にも脚が向く。実際感謝してる、嘘じゃないよ。」
 
 感謝。
 その言葉をくれたのは愛しい女の妹だった。しかし、感謝されるような事は何ひとつしなかったはずだ。結局彼女の大事なものを再び奪ったようなものだったし、彼等の強さにただ助けられたようなもの。
 本当に誰かを助けて感謝されるような事などしていないとゴドーは思う。ならば、まだオンボロな身体があるうちに、そうしてみるのもいいのではないだろうか。
「俺にとっても、悪くはない(お誘い)なんだが。」
 誰も誘ってなんかいない!と真っ赤になって否定する相手をさて置いて、ゴドーは部屋の角を指さした。つられて響也も指さされた方向に視線を向ける。
 四角い部屋の片隅に、小さなレンズがこちらを見ているのがわかった。
「一応俺も囚人なわけだから、監視カメラが付いているのさ。通常は音声を拾うような野暮なものではないらしいが、流石に此処では無理だ。見せつけるのは、流石に風味のない珈琲のように無粋だな。」
「そんな事知っているよ! そうじゃなくて、僕が誘ってるとか訂正してよ! 聞いてるの? 神乃木さん!」
「なぁ、コネコちゃん。外は変わったかい?」
 唐突な問いに、響也は小首を傾げる。
 ゴドーの目は、鉄格子の先にある窓を見つめていた。外の世界は此処に彼が入った時から時を止めている。出ていかなかったのは、罪状だけではなくゴドーの意志も確かに反映されている。
「…きっと、凄く変わったんだと思うよ。僕は、アンタが此処にいた頃は留学していたから。」
「そうか。」
 様々な思いが、ゴドーをこの病室に足止めしていた。死に損ないが今更外に出たところでという自嘲の思いも確かにあった。

「監視カメラのない場所も良い。」
 
 ゴドーの台詞に、ぎょっとした響也の顔はなんとも複雑な表情に変わる。それでも、笑顔になった相手を眺めながらゴドーは思う。

「迷子にならないように、僕がずっと手を繋いでてあげる。」

 面倒なことすべて投げ出して、響也の手を取るのも悪くない。


〜Fin



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